劇団唐組2017年秋公演「動物園が消える日」レビュー。エネルギッシュとロマンティックとセンチメンタルが混然一体の圧倒的パワー炸裂の傑作です!

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唐組「動物園が消える日」公演チラシ
唐組「動物園が消える日」公演チラシより引用

劇団唐組の2017年秋公演「動物園が消える日」に行って来ましたので、レビューします!

わざわざ筆者が改めて言うことでもないのですが、うーん・・天才とはまさに、こういう人のことを言うのか、、と、唐十郎氏の才能に今更ながら感心してしまいました(もちろん演者さんもすごいのですが)。

実は、筆者が唐十郎の劇を見るのは初めてだったのですが、その分、先入観のないフレッシュ(?)な感じ方ができたかもしれません!

それでは行ってみます!

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劇団唐組と言えば、紅テント!

筆者は、10月8日(日)の猿楽通り沿いの特設紅テント公演に行って来ました。

2017年秋公演は、10月7日(土)の初演を皮切りに、猿楽通り沿いと雑司が谷・鬼子母神で東京公演が行われた他、11月には静岡公演と金沢公演が行われました。

金沢は、本作品「動物園が消える日」の着想を得た動物園のあった場所なので、とりわけ感慨深い公演地だったのではないかと思います。

さて、劇団唐組といえば、紅テントですが、今回初めて行ってみました。

筆者が行った猿楽通り沿いの方は、御茶ノ水駅又は神保町駅から歩いて行きますが、明治大学の校舎の空き地スペースのようなところに設営されていました。

テント自体は年季が入ってそうですが、設営はしっかりしていて、野外劇場!という感じでワクワクします。現代日本で、こういう野外テントでの公演が基調の劇団って他にはないのでは?と思います。

現代日本でもこういう公演が観られると言う点で、唐組の公演は本当に貴重です。

唐組の紅テント公演と言うのは、サーカスみたいなもの(余韻を残して消えていく)とか、夢みたいなもの、と劇団員や観客が表現したりしますが、まさに、消えて無くなる、と言うところにこの劇団の公演の本質があるのだろうと思います。

それは、本公演を見ればさらにそう思います。唐作品は、建物としての劇場ではなく、紅テントで公演したからこそ本領を発揮するような作品です。

この点でも、唐作品および唐組はかなり個性的な演劇だと言うことがわかります。

なお、紅テントは劇団員の人たちが全ての設営を行うそうで、かなりの重労働であるのに加え、ノウハウも必要になる作業なので、本当にすごいとしか言いようがありません。

さらに、唐組では舞台装置や美術・衣装なども劇団員が作り、公演での装置を操作するのも劇団員が行うそうで、演劇に集中するだけでなく、何から何まで劇団員が行うというのは、なかなかすごいです。

劇団員というと、バイト生活というイメージがどうしてもありますが、この劇団も、通常は配送業などのバイトをしている団員が大半だそうです。

でも、本当に好きなものに打ち込むという生き方は、お金が全てという人が圧倒的な世の中で、少数派ですが必ず世の中に必要な人々だろうと思います。

こういう劇団活動が世の中から消えてしまったら、世の中はどこかおかしくなる気がします。もう少し、こういう活動がやりやすくなるような経済的な仕組みがあれば良いのですが。

唐組の劇団員は11名ほどだそうで、意外と少ないのだなと思いました。やはりこれだけの厳しい条件で、それでも演劇がやりたいという人は相当の熱意とエネルギーがある人になってしまうのでしょうが。

劇団は、入れ替わりはあるのでしょうが、ベテラン勢数名に加えて若手で構成されているような感じでした。

特に、若手の劇団員のエネルギーには圧倒されます。劇団なので滑舌よく大きな声で話す、というのは当然ではあるのですが、とにかく一つ一つの動作、セリフにエネルギーが尋常でなくこもっている。それも、スポーツ的な熱狂というのではなく、もっと地面から湧き上がってくるような原初的なエネルギーという感じです。

現代日本では、あまり見かけないタイプの若者たちであることは確かです。高度経済成長期までは結構いたかもしれない・・というようなタイプの若者たちのように見えました。まあ、そういう若者だからこそ、唐十郎の演劇に惹かれるのでしょうが・・。

それにしても、唐組の女性劇団員はすごいと思いました。やはり、女性の劇団員は不足しているようですが、現代で、こういう劇団にあえて飛び込む若い女性は、なかなかいないような。

そういう中で、唐組に入ってやっている、数名の若手の女性劇団員は、本当に尊敬します(本人からすれば、あくまで好きなことをやっている、のかもしれませんが)。

唐十郎不在の唐組公演はどうなのか?

唐組「動物園が消える日」公演チラシ

唐組「動物園が消える日」公演チラシより引用

劇団の本来の主催者であり作者である唐十郎氏は、2012年に病気で倒れてから、現在まで病気療養中で、復帰できていません。

でも、唐組ではベテラン劇団員の久保井研氏が演出を担当し、劇団の公演を続けています。

強烈なカリスマである唐十郎氏不在となった今、唐組の公演を見る意味があるのか、という意見もあるようです。

確かに、演出というのは生ものという面があり、演出家がいなくなると、外見だけは同じ演出であっても、本質的に異なるものになってしまいます。

その意味では、唐十郎氏不在の現在、以前と全く同じ内容の演劇を見ることはできないと言えます。

しかし、唐十郎氏は今後復活するかどうか分かりません。その中で、唐十郎氏の演劇を観られる機会があるというのは十分に貴重なことではないかと思います。唐十郎氏の作品は、あまり映像化されていないと思いますし(筆者が知らないだけかもしれませんが)、実際の公演で見るのが一番だと思います。

現在、演出を担当している久保井氏は、唐十郎氏の演出意図をできる限り踏襲しようとしているように思えます。

唐十郎氏の作品は、将来的にもずっと上演されて欲しいと思いますし、それだけの価値ある作品です。演出は変わってしまうかもしれませんが、作品は再現芸術である以上、いろんな人が上演する可能性を持っているものだろうと思います。

ですから、これからも、唐十郎氏が復活するしないに関わらず、唐組の上演は観に行こうと思いました!そもそも、こんな公演をやっている劇団は貴重です!

紅テント内の様子は?公演の様子は?

紅テント内は、畳のような敷物が敷き詰められていて、観客はそこに直に座ることになります。靴は、配られたビニール袋に入れて、持っておくことになります。

ちなみに、座る場所ですが、勝手に場所を決めていいのではなく、整理券の順番で前の位置から座っていくことになります。

あらかじめ、チケット売り場で整理券をもらい、その順番で整列し、順次テントの中に入場していく、という流れです。この辺は、誘導の仕方といい、日本的ですね〜。まあ、スムーズなのでいいのですが。なので、開演ギリギリにいくと、席は後ろの方になってしまいます。

整理券の列も、いくつか種類があるらしく、友の会?か何かでチケットを購入した人たちは、一番早くテントの中に入場していきました。

観客は、常連風の人から初めての感じの人、学生から年配の人まで、老若男女、幅広い層がいる感じでした。さすがに有名劇団、という気がします。

まあ、中はそれほど広くないので、後ろにいても見えない、ということはないと思いますが。

むしろ、前すぎるとちょっと大変かも・・。開演前に、劇団員の人が、「前方のお客さんは、水にご注意ください」というようなことを言っていて、常連のお客さんは毎度おなじみ、という感じでした。

筆者は、役者陣のツバの水しぶきのことを言っているのかと思いましたが、唐組公演の演出でよく用いられる「水」にご注意、という意味だったのかとも思いました。まあ、両方の意味だったのかもしれませんが。

「動物園が消えた日」はエネルギッシュさとロマンティックさが一体となった「頭の中のドラマ」!

やっと、公演のレビューに入ります!

「動物園が消えた日」は、1993年に初演された作品で、地方都市(金沢市)に実在した動物園(その後閉園された)を素材として制作された作品です。

「動物園が消えた日」がどのような内容かというのは、唐十郎作品の性質からして、一言で説明するのは難しいのですが、物語の設定として、「動物園が閉鎖されることになったが、飼育員やスタッフらは、それまでの動物園での日々や動物たちが忘れられず、動物園を去った後の自分の境遇に馴染めないでいる」という状況からスタートします。

そして、登場人物があるビジネスホテルに引き寄せられるように集まってくる、という設定になっています。

その中で、動物と人間をめぐるエピソードやモチーフが描かれていく、という流れになっています。「人間と動物の関係」というのがテーマの一つであることは当然なのですが、明快に全てを説明しきれない複雑さ・暗示性を持っています。

観劇後、まず、こんな作品を作るなんて天才でしかない、と思いました(今更ですが)。ちょっと才能がある人が書ける、というレベルでは到底ありません。現代日本で、こういう作品を書ける人がいるでしょうか?というレベルです。

この作品は、群像劇で、唐十郎らしいロマンティックさは薄い、のだそうですが、自分が初めて唐十郎作品を見るからだと思いますが、十分ロマンティックさが感じられました。というか、他の作品はどれだけロマンティックなのか?と思ってしまいました。

確かに群像劇で、様々な登場人物が舞台の上で賑やかに演技している様子は、これはこれで見応えがあるものでした。結構元気で、騒がしい?くらいの感じでした。

まず、知ってはいたのですが、役者さんのエネルギッシュさには少々驚かされました。とにかくエネルギーを集中させて全力でセリフを言うので、ツバがかなり飛びます。この小さいテント内で、それほど声を張り上げなくてもというくらいに声も皆さん大きいです。

中には、首の血管が切れそうなくらいに全力でセリフを表現する若手の役者さんもいて、全力で今を生きている、と言う感じがして眩しいくらいです。これだけ全身を込めて表現するものがあるということ、そして、表現の場があるということは羨ましいことだと思いました。

筆者は、本当のところ、大きな声を張り上げて叫ぶようにしてセリフを言う演劇が苦手なのですが、今回は役者陣の表現意欲に圧倒されました。

さて、この劇は、と言うより、唐十郎作品は、なのかもしれませんが、夢野久作風に言えば、「脳髄の中で起こるドラマ」と言うのが一番適した表現ではないかと思いました。

おそらくこの劇の中で最も印象的なセリフは、これかもしれませんが(パンフレットにも記載されている)、まさに「頭の中で起こるドラマ」そのもののようなセリフです。

「動物園が消えないでいるのは、それは、あなたの頭の中にあるその灯が消えないからです。その灯は、もうみんなの目には消えているのに、あなたが火種であるばかりに次々と点火されます。あたしが、そのあなたにすべきことは、そのように申し渡され、勤めたのは、これで最後という切符を一枚、あなたに渡すことでした・・・。」

唐十郎「動物園が消える日」より引用

唐十郎作品のセリフの詩的な美しさに魅了される人は多いですが、本当にその通りというか、複雑な言葉でもないのに、なんでこんなに詩みたいに綺麗なんでしょうか・・。それでいて、この劇のメインモチーフが見事に表現されています。

ちなみに、ドラマなんかで、あまりに日常的な物言いの直接的なセリフばかりを聴いていると、なんだか嫌になってきますが、本来、セリフというのはドラマであれ演劇であれ、人に見せる見世物なのだから、セリフはこだわって欲しいです・・。

「自然さ」にこだわりすぎて、見るに耐えられないレベルになっているものがしばしばある気がします。もちろん、唐十郎レベルを求めるなんて言わないですが。

話を戻しますが、作品としては、高尚な劇というよりむしろ、キッチュな要素もかなり入っている作品でした。

コントやギャグ、流行もの、漫才風の要素もふんだんに取り入れられて、唐十郎氏のアンテナの敏感さを感じさせるものでした。

唐十郎氏は実際のニュースなどから着想を得ることも多いようで、本作も、オーナーの事業方針の転換から閉園した、金沢市に実在した動物園をモチーフにしています。

また、作品には、当時の流行歌や当時人気があったお菓子や香水など、通俗的なものもモチーフとしてふんだんに取り入れられています。この作品では、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」とか、カバヤのおまけとか、ゲランの香水「夜間飛行」とかがそれに当たります。

唐十郎氏は、現実社会から切り離されたところで作品を作るのではなく、現実からインスパイアされ、現実のものを取り入れて、作品を作る人のようです。

そのため、初演から時間が経つと、当時の流行やニュースなどが観客にはわからなくなっているので、少し分かりにくくなるところはあります。まあ、本質的な部分にはあまり関係ないのですが、「ああ、あれか」と分かった方が観客としては楽しいかもしれません。

この作品では、ディズニーランドやミニーマウスも登場しますが、ディズニーランドは今も大人気なので、この部分は大丈夫でしたね(><)。

通俗的な部分あり、下品な部分あり、詩的な部分あり、と様々な要素が混然一体となっているのですが、全体として、非常にエネルギーが感じられる作品でした。

こういう、ある意味過剰なまでのエネルギーというのは、例えば三島由紀夫とか岡本太郎あたりを想起させるもので、昔の一部の文学人・芸術家が持っていた過剰さに似ているものがあります。

日本の文学・芸術というのは、私小説のような、うじうじした?繊細さを特徴とするものも多いのですが、非常に男性的・父性的なエネルギーを特徴とする系統も確実にあり、唐十郎はその系統だろうと思います。現代ではほとんど絶滅してしまったかもしれませんが。

ただ単にエネルギッシュなだけだと引いてしまいますが、濃厚なロマンティシズムや想像力、繊細さも同時に存在しているのが、唐十郎作品を一級品にしているのだろうと思います。とにかく、想像力が半端ない。天才級の作家は想像力が尋常でないですが、唐十郎氏にもそれを感じます。

頭の中で起こるイメージやドラマ。こうしたものの方が、現実をはるかに超えてとんでもないものを生み出す。さすがに想像力の傑出した人の作るものは、現実<頭の中、なのですね。

想像力は、見ている側にも要求されます。この作品(というか唐十郎作品)は、暗示性、抽象性が高く、見ていても全てを完全に理解することは難しいです。

明確なストーリーがあって、それに沿って進んでいく、という古典的な演劇ではないからですが、筆者も、わからない部分がありました・・。でも、決して難解なわけではなく、むしろエンターテインメント性が十分に盛り込まれています。

ただ、見ている側の想像力で補完して、観客の「頭の中で起こるドラマ」をさらに味わう、というような類の演劇なので、本当に楽しむには、ある程度の想像力は必要かもしれません。

まさに、前述のセリフの通り、一度ついた灯が次々に周りに点火される、というイメージですね。

この作品は、見ている時よりもむしろ、見た後で、頭の中で回想して、色々なイメージが想起されている時の方が、深い感じ方や見方ができるかもしれません。何度でも鑑賞に耐える類の作品で、その意味でも本物の芸術作品です。

メンヘラ的ミニーマウス「スイ子」が印象的

しかし、実際の世の中では、現実>頭の中、でないと生きていけません。そういう世の中で「頭の中」に生きているとどうなるか・・。

この作品の(唐十郎作品の)すごいところの一つは、作品と、観客や役者たちが実際に生きる現実社会とのリンクがきちんとなされているところです。単なる「頭の中」に生きている人たちの夢物語ではなく、現実と常に結びついているのです。

この作品には、廃園となった動物園が忘れられない登場人物がたくさん登場し、動物園を去った後の生活や環境にどうも馴染めなかったり、動物園との絆を断ち切れない感じの人物が登場します。皆、自分と動物園の関係に心の整理がつかず、悶々としています。

登場人物の中で、動物園関係者ではないのですが、「スイ子」という印象的な登場人物がいます。

スイ子は、ディズニーランドでミニーマウスの着ぐるみを着る仕事をしており、「人間と動物の区別がつかなくなった」人間の代表例のような役割で登場します。頭にはいつもミニーマウスのカチューシャをしています。

スイ子は、今でいう「メンヘラ」的な人物なのですが、病んでいる風でいて、実は結構気が強いという、さすがナヨナヨしない唐十郎作品ならではの登場人物です。

公演では、唐十郎氏の娘である大鶴美仁音さんがスイ子を演じ、役にはまったような素晴らしい演技を見せてくれました。

唐十郎氏の「小さいもの」へのこだわり

本作品では、動物園で人気者だったカバ「ドリちゃん」が出てきます(登場はしませんが)。

「ドリちゃん」は、菓子メーカー「カバヤ」のカバヤキャラメルの人気キャラクターとして活躍しました。

この辺りの設定は、実際にあったことを劇の中でもほぼそのまま踏襲しています。カバヤキャラメル、懐かしいですよね(世代が分かってしまう)? 四角い箱に入っており、上の部分におまけが入っているものです。

今もあるのかと思って調べて見たら、昔のタイプの箱キャラメルはさすがにないようですね。

劇では、カバヤキャラメルのおまけが出てきます。一方で動物園の動物の中でも巨体のカバ、一方で小さなキャラメルのおまけ。

唐十郎作品では、「小さいもの」へのこだわりが見られるのが特徴のようです。唐十郎作品では、小さいもの、小さすぎてほとんどの人からは顧みられないもの、普通の人にとってはゴミのようなもの、といったものへの執心がよく見られるようです。

唐十郎氏は、そういう「小さいもの」に尋常でない想像力を発揮し、擬人化したような心情、感情を持たせて劇中で語らせます。

唐組以前の唐十郎氏の劇団である「状況劇団」に所属していた俳優佐野史郎氏の本(「怪奇俳優の演技手帖」岩波アクティブ新書(2004年))によると、唐十郎氏は「大きなことをするには、小さいことができなければならない」と語っていたそうです。

怪奇俳優の演技手帖 (岩波アクティブ新書)

この「小さいもの」へのこだわりは、唐十郎氏の特徴なのだろうと思いますが、通常の感覚とはかけ離れたレベルです。

男性的なエネルギーの強い人ですと、大きいもの、目立つものしか目がいかないのが凡人です。やはり才能のある人は全然違うな・・と思わされるところです。

結局、カバはどうなった?

劇では、様々なエピソードが交錯し、それぞれについて分析できるほどメタファー的な内容なのですが、ここでは、クライマックスである、カバについて書いてみます。

劇の後半では、中世ヨーロッパで行われていたという「動物裁判」が行われます。被告はカバ!

カバのドリちゃんの元飼育係は、ドリちゃんをビジネスホテルの2階の204号室に飼っているのだと主張します。

ビジネスホテルのロビーの天井は、カバがいる上の階の部屋から、張った大量の水が漏れそうになっています。

劇のクライマックスで、カバのいる(はずの)上の階から滝のように水が落ちてきて、元飼育係の全身に降りかかります。

ここはメタファー的な演出ですが、元飼育員は、水を全身に受けることで、「現実に戻った」のでしょう。というか、現実を受け入れざるを得なくなった。

この元飼育員は、登場人物に灯を次々に点火した火元の超本人です。元飼育員の「火元」が、カバが浸かっているはずの大量の水によって「鎮火」された。

そして、火元がなくなったので他の人たちの火種も鎮火され、登場人物たちはまた現実の生活に戻っていった、ということなのでしょう。

ここは、実際の公演を観た方が良い部分ですし、文章で書くと味気なくなってしまいます。こういう表現こそ、演劇ならではと言える部分だと思います。

また、ここの水の使い方は、非常にうまいですよね。火を消すには水、という単純なことなんですが、水をぶっかける、という行為は、人をハッとさせるというか、覚醒させるような効果がありますから、それを視覚的に生かした、うまい演出だと思います。

最後はいつもの舞台崩し!

劇の最後は、唐組公演のおきまりの、舞台崩しです!

舞台崩しというのは、舞台のセットがバッと取り外され、外の景色が丸出しになる演出のことで、どの作品でも紅テントの公演の最後はこうなるようです。

舞台崩しは、もちろん紅テントのような野外設営の劇場でないとできないことですが、この舞台崩しも、唐十郎作品になくてはならない仕掛けだというくらい、効果的です。

突然舞台が消えて、外が丸出しになるという、舞台と現実の地続き感、劇がそのまま夢みたいに余韻を残して消えていくような感じ、自然との一体感、といったような唐十郎作品の重要な感覚がよく体現できます。

そもそも、自然の中でやる、というのが紅テント公演の醍醐味で、自然を感じながら、人工の極地である戯曲を鑑賞する、というのが両義的でもあり、自然との一体感を重んじる日本的な部分でもあります。

今回の公演では、天候は大丈夫でしたが、雨でも台風でも、大抵の場合は公演を行っているようです。今回の秋公演でも、10月は毎週末、台風が来ていましたが、公演は予定通り行われたそうです。

台風の時の公演、それはそれで体験して観たい気もしますが・・。

雨風のほか、車の音や各種騒音など、野外ならではの障害も多いですが、それらを含めての野外上演なんだ、という意識が劇団には強くあるようです。

佐野史郎氏が前述の本で、「状況劇団のすごいところは、外で何が起こっていても劇は頑然として存在して続いている」というようなことを言っていましたが、本当に、この劇団の公演のすごいところは、何にも関わらず超然と存在している、というようなところなのだと思います。

最後に

自分の頭にも点火されてしまったせいか、まとまりもなく長くなってしまいました。とにかく、あれもこれもと書きたいことが止めどなくでてきてしまいます。これが唐十郎マジックなのでしょうか・・。

唐十郎氏は、メディア露出も少なく、超有名な人でありながら、なんでもテレビやネットで情報を知る現在の人たちからはあまり知られていないようなところがあります。

筆者も恥ずかしながら、公演を観る機会は今回が初めてでした。何しろ、「とうじゅうろう」だと長年思っていたくらいです。

しかし、改めて、唐十郎作品の斬新さ、芸術性に驚いてしまいました。演劇はどうしても言葉の壁や上演場所の壁がありますが、日本にこれほどすごいものがあるというのは、どれくらい海外で知られているのでしょうか??

まあ、別に海外で知られる方が偉い、というのではないのですが。日本の時代性や言葉がわからないと味わいにくい種類の作品ではありますが、ユニークさは他の有名な日本芸術に匹敵するものだろうと思います。

散々激賞しましたが、今後も劇団の公演が続いて欲しいですし、できる限り見に行きたいと思います!

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