劇団唐組2018年春公演「吸血姫」レビュー。誇大妄想が炸裂する巨大スケールの脳内ドラマ!

劇団唐組の2018年春公演「吸血姫」に行ってきましたので、感想を書いてみたいと思います。

春公演は4月末から6月まで、大阪、東京、長野、静岡で公演が行われましたが、そのうちの東京の雑司ヶ谷・鬼子母神で行われた公演に行きました。

「吸血姫」は1971年に状況劇団で初演されましたが、今回の再演は、唐十郎の劇団としては初演以来だそうです。

感想としては、唐十郎ワールドが堪能できる作品であるのはもちろんですが、1970年代初頭の時代ならではのエネルギーが感じられる作品でした。

唐十郎の誇大妄想とも言えるような想像力は無限のようで、唐十郎の溢れる才能と時代のエネルギッシュさがマッチした、少々破綻してはいても、それを上回るダイナミズムのある作品だと思いました。

スポンサーリンク
レクタングル(大)

連想が連想を呼ぶストーリー展開。印象的で詩的な台詞は唐十郎作品ならでは

この作品のあらすじは、例によってなかなか書きにくいです。観ていて自分でも全部理解できた訳ではありません(^^;;

江ノ島の愛染病院を舞台に、歌手デビューを目指す看護婦・高石かつえの妄想によるストーリーが展開されたかと思うと、謎の引っ越し看護婦・海之ほおずきと少年・肥後守が旅を続ける中で、ほおずきの妄想が妄想を呼んでいくストーリーが展開される、という感じでした。

しかし、明確な分かりやすいあらすじがある訳でなく、ある言葉とかある物事により妄想が引き起こされ、その妄想がさらなる別の妄想を呼ぶ、というような、妄想により話が展開していく印象でした。

なので、話としては、前回の「動物園が消える日」よりも更に分かりにくく、ある意味破綻しているとも言えるくらいの誇大妄想の世界でした。

誇大妄想が際限なく続いていって、最後に統合されるという訳でもなく、カタルシスがある訳でもなく、そのまま放り出されるような感じの終わり方に見えました。

観終わった後は、ただひたすらにスゴイものを観たな、という感想が残るような演劇でした。こういう作品は現代ではなかなかないと思います。

今更言うまでもないですが、詩的な台詞の素晴らしさと、言葉がある言葉を呼んでいくという唐十郎ならではの言葉に対する感受性と鋭さは十分に感じられる作品でした。

これほどのレベルで、ある言葉やある事柄に対する鋭敏さ、またはフェティッシュを持つ作家というのは、そういるものではありません。

唐十郎作品を見ると、他の戯曲が凡庸に見えてしまうほどです。所詮常識の範囲内に収まっているだけ、という気が強くしてしまうのです。

最近、(西欧モノですが)ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」を観劇しましたが、唐十郎レベルの言葉の使い手と比べてしまうと、メーテルリンクの戯曲など、はっきり言って凡庸の極みにしか聞こえません(・・;)

もちろん外国の戯曲にも素晴らしいものはたくさんありますけどね。でも、唐十郎作品を観ると(戯曲を読むと)、日本語が分かって良かったな〜、日本語ネイティブで良かったな〜などとしみじみ思ってしまいます😊

唐十郎作品は、日本語が分からないと本当の良さを堪能することは難しいのではと思います。翻訳で読んだとしても、原語ほど堪能できないのではと思います。

唐十郎作品は、日本の時代・社会背景と一体となったタイプの作品ですし(その時の時代・社会と切り離せない)、そういう背景が多少なりとも分からないと深く理解はできないタイプの演劇だと思います。

その点では、シェイクスピアみたいに、どの時代でもどこの国の人が観ても何かを感じられるというような「普遍性」を持つ戯曲とは異なる部分があると思いますが、それぞれに良さがあるのでどちらが良いとも言えません。

ただ、時代や社会背景が色濃い唐十郎作品にしても、わかる人であればいつの時代でもスゴさは感じられると思いますけどね。

この戯曲にも詩的で印象的な台詞が溢れていますし、劇中歌も聞いていてクセになるような印象的ものが多いです。この戯曲ではほおずきのモチーフがよく使われますが、「ほおずきの歌」もクセになるような曲でした(><)

時代を感じるが、作品の持つ異様な熱気は普遍的

「吸血姫」は1971年の作品ですから、当時の時代の雰囲気とか社会背景とか、流行が盛り込まれています。

愛染かつらのパロディと言ったお遊び要素から、関東大震災、上野公園や満州、川島浪速と川島芳子とか。

2018年現在から見ると、いかにも昔の作品だなあと思うような表面的な「古さ」はあるのですが、作品の持つ異様な熱気とエネルギーは普遍的なものですし、自分の天職探しをするほおずきと肥後守は、現在の人たちにも通じるようなものがあります。

劇の最後、肥後守の「青春、愛、挫折、希望」と言う台詞は、いかにも70年代的という雰囲気はするものの、印象的な幕切れです。もちろん最後はお決まりの舞台崩しで終わるのですが。

(今回の上演は、いくつかカットされた部分があるようで、初演時と全く同じではないようです)

この作品の初演時は、状況劇団の錚々たるメンバーが演じていたそうで、当時の上演を観た人は、当時のような上演は再現不可能、と思う人もいると思います。

確かに、状況劇団時代の上演はすごいものだったのだろうと思います。今、過去の作品を観る感覚とはまた違う迫力と生々しさもあったと思います。

どうしても今は、過去の作品を現在から眺めるという視点でしか観ることはできませんが、それでもこの作品の持つ異様な力は感じ取ることができたと思います。

唐十郎作品は、普通の日常生活を送っていると鈍ってしまうような感性を呼び起こしてくれる、数少ないものの一つではないかと思います。

今回の「吸血姫」も、そうしたものの一つであり、明確な分かりやすいメッセージや主張がある種の戯曲ではありませんが、想像力の無限のエネルギーを感じることができる作品でした。(個人的な好みとしては、前回の「動物園が消える日」の方ではありますが(^^;;)

日常の生活で鈍ってしまっている感性に、たくさんの引っかかりを喚起する作品はなかなかありません。好きな人にはたまらない作品ではないかと思います。

最後に。テント劇の座席問題について

最後に付け足しですが、今の時代、テント劇の観劇は難しいですね・・。観客側が贅沢になっているからです。

今の人は、何においてもプライバシーとか快適さを求めますし、知らない人同士で配慮して譲り合う、というのができない(しない)人が圧倒的に多いです。若い人に限ったことではなく、どの世代でもです。

テント劇自体は良いのですが、実際のところ、知らない人同士が肩を寄せ合って狭い空間に詰め込まれる、というのは、今の時代の人は明らかに好きではありません。

劇団側も、沢山の観客を詰め込もうとするので、どうしてもぎゅう詰めになってしまい、満員電車を連想してしまう始末(座ってはいますが)(;_;)

しかも、観客の荷物も靴もあるので、更にスペースが無くなります。

野外の凸凹の地面にブルーシートを敷いただけの座席は、長い観劇では誰でも尻が痛くなります。

今の時代、地面にずっと座っている経験をする人は少ないので、観客は皆、休憩時間に立ち上がって伸びをしたり腰を叩いたりしています。尻や腰が痛いとブツブツ言う声(若い人でも)があちこち聞こえたり(><)

テント劇とは本来、そういうものなのでしょうが、今の時代の人はやはり贅沢になっているので、不快なのでしょう。(足腰の弱い年配の人がキツいのは分かるけど)

上演中は劇に集中しているのですが、開始前とか、詰め込んで座らさせられるので、知らない観客同士が心なしか殺気立っていたりする有様😩

今回、成り行き的に半人分しかないような狭いスペースに誘導されてしまい、大変困りました。

隣の観客(若い女)は、自分のスペースに余裕があるのに絶対に自分が詰めたり、荷物をどかしたりしないのですから、なんか呆れてしまいました(絶対に詰めてやるもんかという意志を明確に感じたので、何か言う気も失せた)。

何とか縮こまって座ることができましたが、何でこんな目に合わないといけないのか・・。この体勢で2時間半は厳しかったです(><)

こういう狭い空間に詰め込まれる場合、自分だけスペースをドッカリ確保する人がいる一方、狭いところに入れられて縮こまっている人がいるという、とても不平等なことになるんですよね、大体。満員電車とかもそうでしょうが。

とにかく、このことに限らないですが、「自分だけは」という人が多すぎて、ゲンナリします。

劇団側も、多くの人を入れたいのは分かるのですが、窮屈な観客もいるということをもっと知ってほしいですかね・・。劇団側が誘導はするのですが、とにかく「詰めろ」の一点張りで、そうすると一部の人にしわ寄せが行くんですよ・・。

そもそも、テント劇自体が時代に合わなくなってきているのであって、だからこそテント劇は風前の灯なわけですが。自分としては、是非存続してほしいので、観客側にもモラルがほしいところですね・・。

最後はグチになりましたが、現代のテント劇の難しさもありますけど、やはり存続してほしいです!

スポンサーリンク
レクタングル(大)
スポンサーリンク
レクタングル(大)