19世紀英国文学「フランケンシュタイン」の多彩なテーマとは。近代科学の進歩への懐疑、神と人間の関係、ロマン主義、親子関係など、様々なテーマを読み解きます。

メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」には、現代でも通用する普遍的なテーマをたくさん見つけることができます。普遍的なテーマを持つ作品だからこそ、古典的文学作品となることができたのだと思います。

また、この作品は、様々な視点から見ることで面白さが倍増するようなところがあります。以下、筆者が思いついたテーマを挙げてみます。

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近代科学の発展に対する懐疑

これは誰もが疑いもしない本作品の中心的主題でしょう。メアリーの生きた18世紀終わりから19世紀は、近代科学の黎明期で、科学の発展=人類の幸福、と素朴に考えられるような所がありました。産業革命を経たイギリスに生きたメアリーは、尚更そのような雰囲気を感じたのではと思います。

本作の主人公ヴィクター・フランケンシュタインは、科学の真理を追求すべく、研究に没頭し、ついに人造人間を作り上げた。しかし、その結末は悲劇に終わり、破滅が待っていた・・・。

しかし、科学技術の発展が人類の幸福とイコールではない、ということは、それ以降の歴史が証明することになってしまいました。

科学の発展は人類を幸福にするのか、という問いかけは今では珍しくも何ともない感がありますが、19世紀当時でこのような疑問を持つことは、さすが思想家・作家の家系の人ならではという気もします。

さらに、このテーマを深追いすると、(科学と直接関係のない)思想や文学・芸術等は必要なのか、という問いもあります。思想や芸術は役に立たない(要は、金にならない)、というのは現代でもよく言われることです。

科学技術は人類の役に立つし、仕事やお金に直結するけど、思想や芸術は・・・というのは、おそらく多くの人が考えたことがあると思います。

しかし、メアリーは、それに対して否、と言います。まあメアリーは思想・芸術側なので当然なのですが。戦時中を含め、科学者が簡単に時の権力者の言うなりになったり利用されたりした例は沢山あります。科学の知識を悪用する例も沢山あります。

こうした多くの例は、科学者には必要なもの(倫理観や物事を判断・分析するのに必要な思考力など)があるのだ、ということを示しているのだと思います。

そして、もし役に立たないからと言って思想や芸術が放逐されてしまったら、それこそ世界は地獄となり、科学技術の暴走が人類の滅亡につながりかねない、ということもありうるのです。

本作品は、科学の真理を知りたいという探究心にかられて、踏みとどまるべき領域を超えたヴィクター博士が破滅する過程を描くことで、倫理観なき、思想なき科学の暴走に懐疑の目を向けています。

ヴィクター博士は純粋な探究心からでしたが、本作品は、金のため、地位のため・・・超えてはならない領域を超えてしまう危険のある(そして、その場合の影響力が尋常ではない)科学者に対する戒めでもあります。

現代では、全てを単純に割り切れる訳ではないですが、このような問題意識は持っていたいものだと思います。

神と人間の関係

この作品が、キリスト教のいわゆる造物主(神)と被造物(人間)のモチーフを下敷きにした文学作品であることも、明らかです。フランケンシュタイン博士が造物主、作られた怪物が被造物という訳です。

作品冒頭には、ミルトンの「失楽園」の一節が記されています。本作品は、「現代版(正確には19世紀版ですが)失楽園」ということです。

創造主よ、土塊からわたしを人の形につくってくれと頼んだことがあったか?暗黒からわたしを起こしてくれと、お願いしたことがあったか?

ミルトン「失楽園」第10巻 743〜745行

また、本作品「フランケンシュタイン」には、「あるいは現代のプロメテウス」という副題がついています。プロメテウスはギリシャ神話に登場する神で、ゼウスに背いて天界から火を盗んで人類に与えた存在として知られます。

火は人類の進歩に非常に役に立ちましたが、一方で人類は火を戦争や破壊行動にも用いました。「プロメテウスの火」は、人類の発展に貢献する一方で人類の手に負えない破滅も引き起こす、科学への暗喩としてよく使われています。

人間を作り出すという科学の力を得たフランケンシュタイン博士が、その大きすぎる科学の力を使いこなすことができず、結局破滅をもたらす、というのが本作品の筋書きです。

このような大きすぎる科学の力は、現代で言えば原子力や遺伝子組換え、クローン技術など、幾つも挙げることができます。本作品はこうした科学への警鐘を鳴らす文学作品の走りのようなものだと言うこともできるでしょう。

本作品の後、科学の悲観的な未来を予言するような文学作品は多く出ていますが、キリスト教の思想に科学を当てはめたという点では、古典的文学を規範としながらSF小説の走りのような面もある訳です。

さらに深読みすれば、古くからの問題で、現代でも一部には残っている、「宗教 VS 科学」というテーマを読み取ることもできます。宗教というのは科学の正反対と言っていいようなものですから、従来から折り合いが悪い関係であるのは当然です。

歴史的には、宗教の力が薄れてきたから科学が進展したという面がある一方で、両者が結びついてとんでもない暴走を引き起こすこともあります(現代ではむしろこちらの面がクローズアップされるようです)。

この作品には、宗教と科学という19世紀以降の新しい問題の萌芽を読み取ることもできるでしょう。

ロマン主義ど真ん中の文学作品

上記2つのテーマはおそらく多くの人が感じることだろうと思いますが、ここからは個人的な感じ方による部分もあるかもしれません。

この作品は通常、ゴシック小説(幻想的、神秘的な小説)と言われますが、筆者がこの作品を読んでまず思ったのは、コテコテのロマン主義文学だな〜ということでした。

「フランケンシュタイン」は19世紀のロマン主義の只中に書かれた作品ですから、コテコテのロマン主義であるのは当然なのですが。そして、ゴシック小説はロマン主義の流れにあるので当然なのですが、筆者は幻想性よりもロマン性を強く感じました。

恥ずかしげもなく自分の世界に浸りまくる(博士も怪物も)のが、いかにもロマン主義!です。「自分は世界一不幸だ!」とか「自分は世界一孤独だ!」とか、とにかく自分、自分、自分の世界です(笑)。

ロマン主義は19世紀ヨーロッパの偉大な遺産で、文学に止まらず美術、音楽、思想など、ヨーロッパ文化の深化に多大な貢献をしました。

筆者はロマン主義が好きなのですが、反面、ロマン主義というのは外野から見ると、とてもこっぱずかしいものでもあります。思いの丈がぶちまけられた他人の日記を見てしまった感じといえば良いでしょうか(?)。

ロマン主義を専門的に説明するのは筆者の手に余るので、ここではできませんが、個性を持った個人の重視というか、世界でたった一人の自分は尊い、という価値観がロマン主義の特徴の一つといえば良いでしょうか。

現代ではこの手の人は「痛い人」とも言えますが(笑)・・。苦悩しながらも、それに自己陶酔している感じがあるのがロマン主義の特徴のような気がします。

それから、二元論的な対比もいかにもロマン主義的です。天国と地獄、この世とあの世、神と人間といった対比です。この作品では、フランケンシュタイン博士の天国から地獄への転落がこれでもかと強調されます。

幼少期のフランケンシュタイン博士は、これ以上幸福な子供はいないというくらい素晴らしい子供時代を送ったことが強調されています。それが、大人になってから転落していくわけです。

「フランケンシュタイン」は物語の主要パターンの一つである「転落もの」なのです。「転落もの」というのはうまくいくととても効果的なのですが、この作品も博士の転落人生を描くことで劇的なドラマ性を獲得しています。

また、この作品には自然の風景を礼賛する描写が盛んに盛り込まれています。特に作品の舞台となるドイツやスイスの自然礼賛にはかなりの行が割かれています。こういう自然賛美もロマン主義の特徴の一つですね。詩人シェリーの影響も見て取れる部分です。

博士と怪物:親子関係は永遠のテーマ?!

博士と怪物の関係は、親子関係のメタファーだと思う人も少なくないと思います。怪物を作った博士とその被造物である怪物という設定で、擬似的な親子関係を描いているのがこの作品の偉大なところだと思います。

こんな設定、なかなか思いつきませんよね?この設定こそが、この作品の成功の鍵となりました。

博士は、怪物を自らの意思で作っておきながら放棄し、博士に捨てられた怪物は自分の力で生き抜かなくてはなりませんでした。

怪物はその醜い容姿から周りの人々に嫌われ恐れられ、散々な目にあいます。そして自らを作った博士にその恨みの矛先が行き、博士と骨肉の争いを繰り広げ、共倒れしていきます・・。

これって、現実の親子関係のいがみ合いとよく似ていますよね・・。近親憎悪というか、親子関係の憎悪は殺人にまで発展することがあります。

怪物の「親(博士)に見捨てられた、放置された」という思いは、不遇な子供がよく抱きがちな感情ですよね。

博士は博士で、自分が作ったもの(怪物)が自分の思った通りにならなかった(容姿が醜い)、その上、自分に刃向かってくる、というのは実際の親子関係でもよくあることだろうと思います。その点では、妙にリアルです。

この作品を読むと、「子供が思った通りにならないという親」と「親のせいで不遇になったという子供」という関係は、とても普遍的な関係なのかも・・と思わされます。

これは単なる親子の「立場の違い」を超えて、大げさかもしれませんが「造物主」と「被造物」の避けられない宿命みたいなもの、かもしれません。

怪物の繊細さと豊かな感受性

怪物は、外見は醜いのですが、とても繊細で豊かな感受性を持った人物として描かれています。感情も豊かで、たった一人でも、自分を理解してくれる相手を求めてさまよいます。

「自分を理解してほしい!」「自分を受け入れてほしい!」というのは、人の普遍的な願いではあるので、怪物はとても「人間的」な感情を持っていることが強調されます。

ロマン主義文学なので、怪物がそういう人物に描かれているのは当然ではあるのですが、殺人を繰り返す非業冷徹な怪物になったのは、自分の求める愛情が満たされないことから博士への憎悪を募らせた結果であって、根っからの殺人鬼として描かれている訳ではありません。

怪物は他人への共感性がかなり強い人物としても描かれています。他人の苦しみや喜びを自分のことのように感じます。

生来は優しい心を持った怪物が、人間達からの酷い仕打ちによって、人殺しを厭わない冷酷な性格に変貌していくという、その変遷が描かれる点がこの作品のまさに文学たる部分でもあります。

本当は性格の良い人物だったのが、不幸な体験によって性格が捻じ曲げられてしまう、というのは文学に限らずあらゆる分野の物語によく見られる普遍のテーマのような気がしますが、ここでもそのテーマが現れているのです。

さて、醜い容姿と優しい心、という組み合わせはストーリー的に用いやすいせいか、割とよく見られますね。シラノ・ド・ベルジュラックとか、「オペラ座の怪人」とか?

そして、その醜い容姿のせいで不遇にあい、苦悩するという。怪物もこのパターンですね。醜い容姿のせいで不遇な目にあう、というのは昔から今に至るまで、永遠のテーマなのですね・・。

最後に

色々と思うままに書いてきましたが、どれも普遍的で、これからも様々な文学や何やらで描かれ続けるであろうテーマだと思います。

「フランケンシュタイン」は、映像作品の印象が強く、原作はそれほど読まれている訳ではないと思いますが、色々と考えさせるテーマを引き出すことができる作品でした。

19歳の作者が書いたとは思えないほど完成度の高い作品ですが、読む人に何かをインスパイアさせる力に富んだ、魅力的な作品だと思いました。

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

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